研究に倫理的問題はないのか?ー心理学・医学を事例にー

心理などに関する論文を読んでいて倫理的に問題ごあるのではないか、という論文がいくつか見られうる。

私が過去に精神疾患、PDDより、そのような論文を読むのであるが、

論文では、発達障がいについて話の空気が読めないことを皮肉めいた書き方をしていたり、お世辞がわからないことを述べていた。

しかし、倫理的観点から見ると、別に意思決定権があるかどうかまでは論文からはわからないが、本人の了承は得られたものなのか、話の空気やお世辞の問題を本人の問題として扱うことは、「相手を人として尊重する」というより、モルモット的な扱い方をしているように私からは見えた。

人として扱う場合は、その場の空気的な問題等を深掘りするのは、少し倫理的でないような感じがするし、インタビューの事例も「モルモット」のように扱い、「場に合わせられないことは非常に問題だ」と結論づけることはどうなのだろうか。

医療や心理学は、人を扱うものの、探究することを圧倒的に優先していてなんだか読んでいていい気分にはならない。

多様性の欠如する日本の就活

就活において、性格検査が用いられることに疑問を呈したい

SPIなどでも性格検査があり、

質問表を使った代表的なものは、

主要5因子性格検査(BigFive)
児童・生徒向け主要5因子性格検査(Five Factor Personality Inventory - Children (FFPI-C))
YG性格検査(矢田部-ギルフォード性格検査)
MMPI(ミネソタ多面人格目録)
MPI(モーズレイ性格検査)
エゴグラム

がある。特に、MPI(モーズレイ性格検査)やMMPI(ミネソタ多面人格目録)には、周りと価値観や考え方がずれているのか、を測る項目も見られる。

ちなみに私の好きな性格検査は、Bigfiveである。

特にMMPIには尺度が多いため心の状態がよくわかるのだが、妥当性尺度には違和感を感じた。

?尺度(疑問点)
「はい」、「いいえ」、でもない、「どちらでもない」が多すぎると疑わしいとされる。

L尺度(虚構点)
自分をよく見せようといううそを示唆するもの。

F尺度(妥当性点)
出現率の低い回答を風変わりとするもの。

K尺度(修正点)
自己防衛や回答の歪みを見るもの。

とある。

また、第5尺度 <Mf:男子性・女子性>もあり、以上からこのような性格検査を採用活動にて使うことはマイノリティや扱いづらい人を除こうという姿勢が見られる。

ダイバーシティインクルージョン、多様性の社会はまだまだ遠そうだ。

ビジネスサイクルの変化ーPDCAの次は?

ビジネスのうえで、今までPDCAサイクルが有名であった。

しかしながら、ホリエモンが唱えるDCAPサイクルに移りゆくと思われる。

PDCA

P Plan: 計画
D Do:実行
C Check:振り返り
A Action:改善

であったが、

DACPは、

D Do:実行
C Check:振り返り
A Action:改善
P Plan: 計画

であり、最初じっくり計画をねるのではなく、行動しながら考えるというものである。

実際にもこの10年の急速な変化は凄まじく、計画をねるも時代遅れになりかねないよう、まず動き、そして行動しながら改善点を探るというものである。

変化の激しい現在では、ビジネスサイクルがPDCA→DCAPに移行していくだろうといえる。

 

 

障がいとは?ーパラリンピックを事例にー

インドネシアのSES(2008)のローデータを加工して、教育水準と障がいの有無を分散分析した。

SES(Socio Economic Survey)のこと。

分散分析とは、一元配置分散分析という「3つ以上水準の母平均の差を検定する」方法があり、1つの要因のみを検討するものと、二元配置分散分析という「2つの要因を含むデータから、各要因における水準間の平均値の差を検定する」方法である。

狙いとしては、障がいがあるかないかで、教育水準に影響を及ぼすのかである。

インドネシアのSES(2008)のローデータを加工して、教育水準と障がいの有無を分散分析した。

SES(Socio Economic Survey)のこと。

分散分析とは、一元配置分散分析という「3つ以上水準の母平均の差を検定する」方法があり、1つの要因のみを検討するものと、二元配置分散分析という「2つの要因を含むデータから、各要因における水準間の平均値の差を検定する」方法である。

狙いとしては、障がいがあるかないかで、教育水準に影響を及ぼすのかである。

 

障がいは、バイナリ変数で0がなし、1がありである。

結果としては、F(自由度)は大きくpro>F は、0.00であり、差があるということが確認された。


f:id:betaose:20210525102436j:plain

 

ここで話を少し変える。

今年開催されるパラリンピックに注目が集まる中、近年ではテクノロジーや設備の発展など、非障がいと障がいの差はあまりないともいえる。

確実に昔よりも、その差は縮まったとオンラインで聞く機会があった。

SDGsでも掲げられるように、持続可能な社会が望まれる中、「未だに障がいと非障がいには大きな壁があると勘違いされ、残念な気持ちだ」と聞いた。
それを聞いてなんとも言えない気持ちになった。

データは2008年のもので、差が大きいとしてももう10年以上経過の間に急速な経済成長に伴う技術・テクノロジーの進展から現状は大きく変わり、少し古い研究データを信じきってはならないのである。

 

 

 

一長一短の学校教育

寺子屋では、その子に合わせた教育をしていてこの子のペースにあった教育であったので障がいがあっても勉学に励むことができた。

しかしながら、現在では学校教育となっておりそのような障がいは教育にあたって障壁となりうる。

学校教育というのは生産性を求めたものであり、近世になり資本主義など生産性が求められるようになった。

生産性を求められる場合、やはり不良品は出てしまい、また教育でも金銭面や仕事でも格差が生じうる。

 

もちろん、資本主義にも社会主義にもいい面も悪い面もあるし、生産性を求めることも一長一短であると言える。

生産性を求めることもいいことではあるわけだが、物事にはいい部分も課題もあるため、やはり一長一短ではあるが、やはり現在ではインクルーシブ教育など多様な教育があるため、可能な限り最高の教育を追求していきたい。

ポール・コリア―とコロナ禍の日本

ポール・コリアーについて調べてみた。

ポール・コリアーは非常に面白いことを述べており、今のコロナ禍における私の仕事についてその考え方は反映されうる。

コロナ禍において、資本主義経済であった我々は格差がますます変動することとなった。

資本主義は経済の発展には欠かせないが、格差を助長し、弱者を見捨てうることにもなりかねる。

コロナ禍においてその資本主義的構造に影響があり、急に給料が減る、解雇されるという「弱者」的立場になった人も少なからずいる。

その中でロールズ主義と功利主義があるわけだが、平等を強く意識しすぎる場合、「エデンの園」ではなく、権利に基づく個人主義が行き過ぎることにもなりかねない。

ロールズの考え方をいうと、自己の利益を求める合理的な人々が共存するために相互の合意によってもたらする構想であり、端的にいうと平等であることがいいと述べている。

他方、功利主義というと、行為や制度の社会的な望ましさは、その結果による効用によって決定されるという考えである。
端的には、「万人の利益」といえる。

その資本主義的考えと後者の「万人の利益」はある意味相反するものかもしれない。

厚生経済学的観点となれば、ピグーやロビンズがあるが、ここでは割愛する。資本主義に相反するマルクス主義もあるが、ここでは述べない。

その中で、私が気に入ったものは「社会的母権主義(ソーシャル・マターナリズム)である。
ある意味これは市場経済的にも、倫理的観点にも根差す政策で、社会の溝を解消しうると考える。

国家として社会と経済の両方の役割としては、この考えは重要だと思う。

日本と海外の文化の違い

日本と海外の言語の特色には違いが多いと感じる。

 

例えば、海外とくにアメリカやカナダでは「ありがとう」と結構言うものの、「ごめんなさい」はあまり言わない傾向にある。

 

日本はことあることに「すみません」というものの、なぜかよく「よろしくお願いします」とよくいう。

 

外国人に言わせると「よろしくお願いします」とはどういう意味なのか、と問われるわけだが、わたしには説明できない。

 

「よろしくお願いします」を外国人にどういう意味で使っているのか明確に伝えることはできないのであろう。

 

あるいは、予め「ありがとう」といっているものかもしれない。

 

日本の文化と海外の文化が違い、言語でも翻訳アプリでは物足りない。

 

翻訳アプリには言語の壁は越えられないし、日本と海外の言語には大きな違いがあると言える。